『日曜講話』第一号(昭和63年3月6日発行)
対治悉檀について

  皆さん、お早うございます。昨年の十二月二十日、二十七日の二回にわたりまして、仏様の化導の方法として、「四悉檀」ということがあって、その一つ目が「世界悉檀」二つ目が「為人悉檀」ということを申し上げました。今日は、その三つ目といたしまして「対治悉檀」ということについてのお話を申し上げたいと思うのであります。 この「対治悉檀」ということは、読んで字の如く、相手の誤り、相手の考え方、相手の信心、相手の宗教観というものに対する誤りを、きちっと破折をしてあげるということが大切なのであります。よく折伏するときに、どうしても私達は、いいことばっかりを言うのであります。「病気が治りますよ。功徳がありますよ。そのうちに生活が変わりますよ。家庭も円満になりますよ」総て、いいことずくめを言って、そうして折伏をする。それは当然のことなのであります。
  大聖人様は、この信心を全うする過程において、現当二世はもちろん、過去の罪障を消滅し、現在の自分の生活や悩みや苦しみを打開して、又、未来にわたっての幸せを開拓していく。その三世を通達する功徳があるということは事実であります。厳然たるそれは事実に則って「陰徳陽報」ということを言われている訳であります。
  ですけれども、ともすると、それだけに眼が眩んでしまって、正しい因果の理法というものを無視して、ただ功徳だけを請い願うという人が中にはあるのであります。勤行もしない。唱題もしない。ただ御本尊様さえ持っていれば、あるいは、たまに気が向いたときだけ信心すれば、もう溢れんばかりの、自分の望みが総て叶うぐらいに錯覚をして、そうして「功徳がない。何だこんな御本尊様!」と、御本尊様に当り、大聖人様に当り、又、折伏して下さった方に突っ掛かってくるという場合もある訳であります。そうしたときに、その結果において、いつまでも、いいことばっかりを言い続けていますと、逆に逆恨みをする。末法は顕益よりも、むしろ冥益ということがわからなければ、本当の功徳の意味ということはわからない。自分の信心、自分の生活、自分の日頃の実践ということを抜きにして、ともすると、そういう人は自分の実践は棚に上げて、そしてただ「功徳がない、功徳がない」ということをおっしゃる。しかも素面のときは言えませんから大抵お酒を飲んで、お酒の上で、そういう暴言を吐いたり、あるいは御不敬をしたりということがある訳ですね。ですから折伏をする過程においては、相手の根本的な誤りを、きちっと破折をするということを忘れてはいけない、ということが一つ。つまり決して、いいことずくめで終わってはいけないということが第一点。
  第二点は信心というものには正邪・浅深の分別、弁別があるということを、きちっと教えなければいけない。「宗教は何でもいいから持っていればいい。御本尊様を護持していればいい」というだけの折伏では、いけない訳であります。やはり正しいことと間違ったこと、やっていいこととやってはいけないこと、この謗法の恐ろしさというものを、きちっと教える。逆に又、この信心の尊さ、信心の持っている意味、その功徳というものは、どのようにして現れるものかということを、きちっと教えてあげるということが大切であります。その正邪の分別を、きちっと付けるということが大切です。ですから折伏も、ただ世界の平和だとか、広宣流布だとかいう、そのムードだけで折伏をしちゃいけない。世界の連帯、世界の人と手を取り合って仲良くしていくという、そういう理念は非常に崇高な大切なことでありますけれども、それだけで折伏しますと、外の宗旨だって、そのようなことは言っている訳です。キリスト教だって、そう言っております。あるいは、いろんな新興宗教のような、変な、いい加減な教えでも、その道徳的なこと、人の心を打つような、甘いことは、いいことは、みんな諸宗だって言っております。ですからその程度のことを言っておりますと、「やはり日蓮正宗でも、大聖人様の教えだって結局、同じだ」という風に取られてしまうのであります。ですからやはり大本は、根本的に正邪の分別が、きちっと立っていなくてはいけない。そうして信心というものはどこまでも正しいものを、優れたものを、尊いものを、第一義のものを、意味のある信心をしなければいけないということを、きちっと教えていかなければならない。こういうことが、一つの「対治悉檀」ということなのでございます。
  更にもう一点申し上げたいことは、例えばお家の中で、「お父さんがやっているから自分はもういい。おじいさん、おばあさんがやっているからもういい」と、こういう人が又、多いのであります。そうすると皆さん方の信心を今の当代の人はやりますけれども、その子供さんやお孫さんの時代になってくると、段々と一家の広宣流布ということが出来にくくなってくる。そうすると子供さんたちは、いろんな詭弁を、あるいは信心から避ける、信心をしまい、しまいという意味において、いろんな理由を考える訳ですね。その中に、大聖人様の教えじゃなくて、自分の心で、自分で決めつけて、ああでもない、こうでもないと、それらしい理由を作ってしまうのであります。その一つの理由の中に「おじいさん、おばあさんが一生懸命やってるから、お父さんがやってくれてるから、お母さんがやってくれてるから。お父さん、お母さんがいなくなったら、自分もやります」と、こう言うのですね。そういう人は、よく考えてもらいたい。それじゃ自分のお父さんが大学の先生だったら、あるいは幼稚園の先生、小学校の先生、中学校の先生、高等学校の先生、いろんな先生がいる。自分の家族の中に先生がいたら、自分は学校に行かなくっていいんだという理屈と同じことになる。「自分のお父さんは大学の先生だ。偉いんだから僕は小学校や中学校へ行かなくたっていいんだ」そんなことは通りません。むしろ、そういう教育環境にあるとするならば、「自分もお父さんのようになりたい。自分もお父さんのように先生になりたい。どうしても学者になりたい。自分は一生懸命、勉強したい」むしろ、そういうお父さん、お母さんが教育者として立派にやっていらっしゃるならば、親を尊敬して、又、親の影響でもって「自分も」という気持ちになるのが本当なんですね。それを逆に「もうお父さん、お母さんが一生懸命勉強して学者だから、自分は勉強しなくていい」とか「学校に行かなくていい」とかという風なことを、もし考えるとするならばそれはおかしい。じゃ、「自分のお父さんが、消防署に勤めているから、私の家は消火器はいらないんだ」と、そんな馬鹿なことはないんです。お父さん、お母さんが、むしろ、そういう消防ということに対して、防火ということに対してのプロならば、やはり自分の家が先ず最初に消火器を置かなきゃいけない。先ず防火訓練を年に一回やるぐらいの、やはり人よりも先んじて、そういう意識がなければいけない。むしろお父さん、お母さんは、自分がそういう職業にあるとするならば、先ず、わが家に消火器一台を置くことを惜しんではいけない訳であります。それを「お父さんは消防署に勤めているから、うちは火事になったら一番に来てくれるんだ」とか「消火器を置かなくてもいいんだ」と、そういう理屈を言うとするならば、それはおかしい。ですからそういう一つの信心の上に立っての屁理屈を、そういうわかりやすい例えをもって破折をしていく、ということを心掛けて頂きたいと思うのであります。
  天台大師は『法華玄義』という中に「対治悉檀」につきまして、
  「対治とは貪欲多きには不浄を観ずることを教え」(大正蔵三十三−六八七・A)
つまり欲張りの人に対しては、例えばお饅頭だ、お菓子だとかそんなに物に子供は欲張る。だから餓鬼とも言う訳です。その欲張りに対しては、食べられないほど自分で欲張っても、結局、それは腐らせしてしまうだけだと、その心の醜さ、その不浄観というものを教えなさい、ということを言っておられます。又、
  「瞋恚多きには慈心を修することを教ゆ」(同 上)
怒りに狂う、そういうことよりも、本当に人の気持ちを動かすものは、例えば人のマントを脱がすためには、北風よりも何よりも、やはり太陽の暖かさがそうさせるように、慈悲の心、慈しむ心が、人の心を打っていく。あるいは物を食べても美味しく味わうためには、本当の栄養になるためには、体の中で、その消化酵素が充分に出て、胃や腸の働きを促進するためには、やっぱり穏やかな気持ちで、一家の団らんの中で食べるということが大切ですね。それを毎日毎日もうカッカ・カッカして御飯を食べても結局、美味しくはない。栄養にもならない。やはり怒り狂って物を食べても、あるいは人に対処しても、仕事をしても、結局うまくはいかない。やっぱり人間は明るく、気高く、安穏の大きな気持ちで、物事に取り組んでいくということが大切ですね。ですから信心の上でも、やはりそういうことであります。怒り狂って、あるいは人を恨んで、呪って、そうして信心したってそれは何もなりません。物を食べてもそうなんだということですね。それから、
  「愚癡多きには因縁を観ずることを教ゆ」(同 上)
つまり愚癡の人ですね。何かあると「自分は損だ、損だ、損だ、損だ」と、こう言う。あるいは又「こんな時代に」「こんな姿形に生んでくれて」と、「自分はこの世の中に何も生まれて来たくはなかったんだけれども、お父さん、お母さんが自分を生んでしまった」と、「こんな貧しい家に生んじゃった」とか、あるいは「こんな醜い姿に生んでくれた。よくも生んでくれた」と、お父さん、お母さんを恨む人がいるんですね。こういう人に対しては、よく因縁を教えなさい。そこにはそういう因縁というものがあって、やはり道理があって、今日の自分の命というものがある。「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・等」今日の勤行の中にも「方便品」に、十如実相ということが説かれておる。この「相・性・体・力・作・因・縁・果・報」によって、今日の自分の命というものがある。こういう姿形で、こういう因縁のもとに、こういう性質を持って、そういう体、そういう働きがあって、始めて今日の今の自分があるんだという、その因果の道理を、きちっと教えていってあげるということが大切なんですね。「ただ遊び半分に自分は生まれて来た訳じゃない。お父さん、お母さんが遊び半分に、そうして自分を生んだ訳じゃないんだ」ということを、よーく、その人に、誤りを指摘してあげるということが大切だということにつながっていく訳であります。 
  大聖人様は「如説修行抄」という御書の中に、
  「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩 を一人もなく、せめをとして法王の家人となし」(全五〇二)
  「法華は折伏にして権門の理を破す」これが『法華経』の精神です。何事も自行化他ということが大切なんですね。自行だけでもいけません。やはり志を立てて化他を行ずる。これは信心だけじゃありません。一切の自分の行動の規範も全部これは自行化他です。どういう職業についても、どういう分野に進んでも、自行だけではいけない。自行化他、やはり相手を思いやり、又、相手に教え、そうして後輩を引っ張っていく。そうしたことは職場においても大切なことなのです。ですから自行化他の実践ということは社会においてもそうです。世界に向かって、やはり日本人が自行化他の精神で生きていかなけりゃならない。日本は自分さえ良ければいい、という風な考え方、そういう風潮が今の日本の社会の中にも、世界に向かって日本人自身が独善になり過ぎる部分が、なきにしもあらず。今世界の人達が、本当に「うらやましい」と、本当に世界中から、やっかまれるほど日本は豊かないい時代を迎えておりますね。そうした時に、日本は独尊で、自分だけ良ければいいという考えではいけない。やっぱり大聖人様の自行化他の精神に則って世界の人々に、世界に貢献していくということが大切なんです。ですから自行化他は、ただ勤行と折伏だけが自行化他じやない。自行化他によって生きる。自行化他によって日本の社会を動かしていかなければいけないんだ、ということを考えていかなければいけないと思います。
又「如説修行抄」の結論として、大聖人様は、
  「誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(全五〇四)
ということをおっしゃっております。「誰人にても坐せ」ということは世間の人を恐れてはいけない。相手が学者であろうと、あるいは知識人であろうと、何であろうと、どういう立場の人であっても、折伏は人を恐れてはいけない。世間を恐れるな。人を恐れるなということでありますね。やはり私達は勇気を持って、上司であろうと、あるいはもっと私達より上の立場の人であろうと、その信心の上におけけるところの誤りを誤りとしとて、きちっと破折をしていかなければいけない。「対治悉檀」をもって相手を救っていかなければいけないということであります。
  又「音も惜しまず」ということを言われております。その話をする言葉を惜しんではいけない。その声も惜しんではいけない。慈悲の心を惜しんではいけない。実践を惜しんではいけない。あるいはその労力を惜しんではいけない。勇気を惜しんではいけない。やはり私達は自分の志を惜しみ、労力を惜しみ、言葉を惜しみ、そうして相手の立場に立って相手のもとへ何回も何回も通う、その誠意を惜しんで、そしてただ「折伏が出来ない、折伏が出来ない」と、折伏が出来ないことを嘆いている。その実態をよく冷静に分析すると、結局、その言葉を惜しみ、慈悲の心を惜しみ、労力を惜しみ、誠意を惜しんで、ただ「出来ない、出来ない」と言っているだけに過ぎない部分が、なきにしもあらずだと思うんですね。ですから大聖人様は「言葉さえも、声さえも惜しんではいけない」ということをおっしゃっている訳でありますから、私達もその大きな慈悲を尽くし、その言葉を尽くし、声を尽くし、労力を尽くし、誠意を尽くし、努力を尽くして、やはり自行化他にわたっての信心を全うしていくということが大切だ、ということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。
(昭和六十三年一月十日)

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