『日曜講話』第一号(昭和63年3月6日発行)
第一義悉檀について

  皆さん、お早うございます。本日は、いよいよ四悉檀という化導の方法の中で一番最後の「第一義悉檀」、又、「入理悉檀」と申しますが、この一番大切な「第一義悉檀」ということについてのお話を申し上げたいと思うのであります。よく世間の人は、
  「分け登る麓の道は多けれど同じ高根の月を見るかな」という歌を詠いまして、信心と言うものは、要するに仏を求め、神を求め、正理を求める志があれば、どの宗旨でも全く同じなのだという風に考える人が多いのであります。例えば富士山に登る時に山梨県の吉田口の方から登ろうとも、静岡の富士宮の方から登っても同じ頂上に到達するんだから、どの口から登っても同じなんだという風に、そういうことを例に引いて、お話をする人が多いのであります。
  しかし仏法の真実の教えというものは、そういうものではないのでありまして、それが同じように高根に登る道だと、本当にその真実のところに導く道だと思っておっても、そのように見えても、実際は途中で途切れた道もあれば、谷底に落ちる道もあれば、全部頂上につながっているとは限らないのであります。
  それを世間の人がそのようにおっしゃるから、そのような歌に託して言葉巧みに説かれるからといって、それに惑わされるということは、これはいけないことでありまして、仏の化導において方便と虚妄の説と、どこが違うかと申しますと、正しくその真実のところに導く、その方便は方便で終わらない、必ずそれが真実の正法のところに、頂上にきちっと到達出来る道であるということ、そして又、そこに到達出来て初めてそれは真実の方便だったということが言える訳であります。本当にその正しい頂上を目指すことが出来ないものは、それは全部どんなに立派なことを言い、どんな素晴らしい道のように見えていても、それは嘘であり、又虚妄であり、それは言葉を換えて言うならば、真実の道理を隠す、真実の正法に導き得ないという故において、それは又、正法を否定するという故において、それは全く謗法になってしまうんだということの恐ろしさということを知らなければいけないと思うのであります。
  ですから釈尊自身も『法華経』の「方便品」に、
  「正直に方便を捨てて但無上道を説く」(開結一八九)ということを、はっきり説いておりますし、「法師品」というところには、
  「此の経は方便の門を開きて真実の相を示す」(開結三九三)
ということを釈尊自身が、やはり説いております。その真実の正法に導けてこそ、初めて今までの爾前権経の方便も爾前権経としての真実の働きと、その使命を果たしたことになるのでございます。
  ですから私達が、どんなに勤行をし、どんなに信心をし、又どのように又ものを学んでいっても、やはりその根底に広宣流布という真実のところに一切の人々を導いていくという、その大きな志と、精進と、その慈悲というものが根底に備わっていなければいけないのであります。
  従って、大聖人様は、
  「広宣流布の志なければ利生得益あるべからず」(全八〇七取意)
ということをおっしゃっておられます。ですから私達が、この一日一日、勤行を貫く、信心を貫く上においても、やはり広宣流布の一環として自分も精進をさせて頂くんだというその気持ちが、その慈悲が、その振舞いが、その根底になければいけないということであります。ただ自分が幸せになりたい、やれああなりたい、こうして頂きたい、ああ功徳が頂きたいと、ただその自分の願いだけを、もう朝から晩まで、そのことだけを願っての信心ということならば、それは全く我欲の信心であります。人はどうでもいいというのは、大聖人様の御精神ではありません。『立正安国論』に始まって『立正安国論』に終わると言われる意味は、やはり大聖人様の御生涯を通して貫かれたものは、どこまでもそれは折伏の一念であり、諌暁の一念であり、一切の人々を救っていこうという、先ずその折伏の先駆けを大聖人様がされておられる訳であります。
  従って大聖人様は『諌暁八幡抄』という御書の中に、
  「仏は法華経謗法の者を治し給わず」(全五八九)
ということをおっしゃっておられる。
  釈尊は五十年間、営々として、あらゆる八万四千の法門を説き切ったけれども、又『法華経』の「寿量品」に於て久遠の開顕をしたけれども、謗法の人を具体的に治する、謗法を破折するという点において、折伏の仏とは言えない。どこまでもそれは脱益の仏であり、その一切の方便をもって徐々に人々を導いていくという、そういう化導の方法を用いた仏様である。大聖人様のように、始めから終わりまで折伏を貫かれた仏ではない、ということを大聖人様はおっしゃっている。
  その点、大聖人様は、
  「日蓮一人、南無妙法蓮華経ととなえたり」(全一三六〇取意)
  「二陣三陣つづけよかし」(全九一一取意)
と折伏の先陣をきわめ、そしてまた一切の諸難をことごとく乗り越えて、凌いで、そして又この信心を全うする上においての、その三類の強敵を凌ぐという上において、大聖人様が、末法第一の先駆けをされる仏様であられる訳であります。従いまして私達も、大聖人様の後に続く二陣三陣として、百人、千人、万人と、大聖人様の弟子としての信心を貫く者ならば、自行化他にわたって、大聖人様の御精神の上に自分の信心を貫くということが大切と思うのであります。
  大聖人様は『撰時抄』という御書の中に、
  「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあう べし」
「南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合わせ四海に肩 をならぶべきや」(全二六六)
とおつしゃっております。この折伏を行ずるという上において、大聖人様にかなう人は如何なる三世十方の仏の中にも、ただ一人もいないということを、大聖人様はおっしゃっております。その折伏の徳、折伏の持つ大きな意味というものを私達は絶対に忘れてはならないと思うのであります。
  しかしながら世間の人はこの信心を笑い、折伏を又笑い、いろんな意味で皆さん方の信心に対して非難中傷する人が多いんです。ですけれどもようく冷静に考えてみて下さい。人間として正しい信心を全うする人と、信心の志のない人と、どちらが勝れているかということをみますと、それは信心のない人よりも信心のある人の方が素晴らしいに決まっております。その人の方が勝れております。そして又その正しい大聖人様の御本尊を受けて信心を持ったとしても、しっかりと勤行をする人と勤行をいい加減にする人と、どちらが勝れているかというと、しっかりと勤行を貫く人の方が勝れているに決っております。そして又いろんな会合と言わず、お講と言わず、そういうきちっとしたラインに則って自分の信心の深化を図ってゆく人 、又しっかりと大聖人様の御書の御指南に触れて、教学を学んで一日一日と向上していこう、あらゆる諸難に打ち勝っていこうという、そういう精進の人と、そうでない人と、どちらが勝れているかというと、一日一日精進していく人の方が勝れているに決まっております。そして又、この折伏を貫く人、折伏の志を持った人、それを実践する人と、そうでない人と、その境涯の上において、信心の上において、人間性の上において、どちらが勝れているかというと、やはり又その折伏を貫く人の方が勝れているに決っております。ですから世間の人の言葉ではなくて、具体的なそうした事実の実践の上において、どちらが勝れておるかということを判断すると、やはりその折伏を貫き、又その折伏の一念に立って、自分の信心を一日営々として貫く人の方が勝れておるに決っております。
  従って大聖人様が、その一閻浮提第一の正法を自行化他にわたって貫く人こそが一閻浮提第一の人なんだとおっしゃっておられるのであります。
  その誇りと確信と希望を持って、どこまでもこの「第一義悉檀」ということを心に置いて下さい。「為人悉檀」とか「世界悉檀」とか、そういう化導の仕方は方便であります。そして真実は、どこまでも一切の人々を自分と共に、大聖人様と共にこの妙法のところに、その第一義の正法正師の正義のところに導くということが真実の慈悲であり、真実の仏の振舞いであり、又本当の正しい信心の修行なのだ、最も尊い、それは又大きな意味を持った、そこに功徳の備わる最も大事な、私達の信心の実践の姿なんだ、ということを心得て頂きたいと特に皆様方に申し上げたいと思うのであります。
  大聖人様は『持妙法華問答抄』に、
  「願くは『現世安穏、後生善処』の妙法を持つのみこそ只今生の名聞、御世の弄引なるべけれ。須く心を一 にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧めんのみこそ今生人界の思出なるべき」(全四六七)
ということをおつしゃっております。私達の現当二世にわたっての幸せな境涯ということも、この人生における最大の歓びも、やはりその折伏の上において、初めて本当の意味のある思い出が、又その尊い功徳がそこに備わってくるのだということを教えておられるのであります。
  又私達は大聖人様の弟子というならば、せめて一週間に一日でもいい、あるいは一ヶ月に一日でもいい、だれにも言われることなく、自分の志の上において、折伏の一念に立って、そして友達に、又多くの人々に下種をし、そしてこの正法のもとに導いてあげるという、そうした折伏の日を、折伏に立った、その実践の日を、自分自身の一念の上において持って頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。
(昭和六十三年一月十七日)

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