『日曜講話』第一号(昭和63年3月6日発行)
臨終における語業清浄

  皆さん、お早うございます。人間の一生というものを考えてみますと、その生きざまといい、人間の最後の姿、臨終というものは、結局、生涯を通して自分という人間を、どのように造っていくかという事に尽きると思うのであります。皆様方も今までに、家族の誰かの臨終に立ち会ったという経験がおありのここと思います。おじいさん、おばあさんの最後の看病を自分がしたとか、そうした臨終に家族がみんな集まって、その方の最後の姿を看取ったという経験は、皆さん方にも大低の方がおありの事と思うのであります。人の臨終というものは、非常に大切な事であります。
  特に大聖人様は、『妙法尼御前御返事』という御書の中に、
  「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(全一四〇四)
ということをおっしゃいまして、成仏不成仏という事も、やはりその最後の姿の中に現れてくるのであります。前にも申し上げたことがあるかも分かりませんが、遠藤周作さんという作家がいらっしゃいますが、この方の、『死について考える』というエッセー集がございまして、たまたま私がその本を読んでおりましたら、遠藤周作さんが、自分はどういう理由でキリスト教徒になったのかということを、告白されているのであります。その言葉はどういうことかと申しますと、イエスキリストの臨終の姿、最後は磔(はりつけ)になって亡くなっていく訳でありますが、その時に十字架に架けられたイエスキリストは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイ伝二七章四六節)我々の言葉に直しますと、「我が神よ、我が神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」という呪いの言葉を発したというのであります。そしてその神を呪いつつも最後には、「我すべてを汝に委ね奉る」(ルカ伝二三章四六節)ということを言って亡くなっていったというのであります。それはキリスト教徒にとりましては、神がそれほど悶え苦しみ、嘆いて、そして最後の臨終を迎えたのですから、自分も多分死ぬ時には、大変な痛みに耐えかねて、あるいは死の恐怖に対面して、とてもとても仏教徒の人々がおっしゃるほど、神々しい、豊かで清らかな臨終なんていうものは、とても自分には考えられない。ですから自分がキリスト教徒でいるならば、教祖がそうだったのだから、一番最初の宗祖がそうなのだから、自分もどんな醜い死に方をしても恥ずかしくない。教祖と同じように自分も苦しんで死んだのだと言えば言い訳が立つという訳なんです。仏教徒は臨終を大事にするから、自分は恐ろしくて仏教徒にはなれない。だけれど、キリスト教徒だったら、イエスキリストがそうだったのだから、自分もどんな醜い死に方をしても、世間の人に申し訳が立つ。自分はそのために、そうした自己弁護のためにキリスト教徒になったのだということを書いているのであります。ですからこの宗旨が正しいとか、実際に仏や神の実在というものを確信して、あるいは又、教義に打たれて自分が入信したというのではないのです。いかに自分を飾るか、自分の死も恐らく醜い死になるだろう、何とも醜い姿になって自分は死んでいくだろう、そのときに、世間に恥ずかしくないような言い訳を今から考えておくということなのです。そのために自分はキリスト教徒になったのだ、というようなことを書いておられるのであります。
このように、その宗旨の正邪ということも、実は臨終の姿にも現れてくるということを考えて頂きたいと思うのであります。皆さん方が実際に、自分のおじいさん、おばあさん、あるいはお父さん、お母さん等で、しかも、正宗の大聖人様の弟子としての生涯を全うした人の臨終というものは、本当に清らかな、豊かな、神々しい、その人の信心の功徳というものが、その身の上にきちっと現れてくるのです。業病のあった人、持病のあった人は、むしろその病を乗り越えて、そして清らかな臨終を迎えることができるという姿を、私達は目にしている訳であります。
  大聖人様は「道理よりも証文、証文の上に現証」(全一四六八取意)ということを、『三三蔵祈雨事』という御書の中に仰せになっていらっしゃいます。あるいは「兜羅緜の如し」(全一三一六)とか、あるいは昔から
「半眼半口」ということを言われております。『千日尼抄』等々も御覧になって頂きたいと思います。その臨終の姿、今でも生きているような姿、そして又、色の黒かった人が色白になって、何とも言いようのない、人の心を打つ姿において、その生涯を全うしていくということの大事さを、大聖人様は、色々な御書の中にお説きになっていらっしゃいます。
  私も『心地観経』というお経を先般、読んでおりましたら、臨終の姿というものは、その人の身口意の三業の上に現れてくるのだということを説かれておりまして、その人の心の上に、十の何とも言えない姿が現れてくる。そして又、言葉の中にも現れてくる。その如是相、相の上にも十種の姿が現れてくるというようなことが説かれておりましたので、今日は、その正しい信心を全うした人の臨終の言葉のに、どういう言葉が現れてくるのかということを、御紹介をしたいと思うのであります。それは、十種の言葉の清浄、清らかな言葉が、何も考えて言うのではなくて、作って言うのではなくて、自然の形で、そういう言葉が出てくるということを説かれているのであります。
  その一つは「微妙の語を出す」その人らしい、その人の人格、その人の心根、決して作ったものではない、その人の本音の部分の言葉が、いつとはなしに、臨終間近の人の言葉の中に現れてくる。「微妙の語を出す」ということを言われております。
二番目は、「柔軟の語を出す」柔軟というのは優しい言葉、不断は意地悪をしていた、あるいは嫁姑の中でいろんないさかいがあった、そうして何とも憎たらしい人であったけれども、その臨終の言葉に「ああ済まなかった」とか「ああお世話になったね」とか、あるいは「面倒かけたね」とか、いろんな柔和な言葉が、その人の人格の上に自然に出るようになってくるのです。意地悪な性格の人、何とも悲しい生きざまをした人でも、最後の臨終の言葉の中に、そうした「柔軟の語を出す」ということを言われております。
  三番目は「吉祥の語を出す」つまり、めでたい言葉、喜びの言葉を発するという訳ですね。その人の感じたまま、あるがままの中で、自分が有り難いと思い、めでたいと思うそういう言葉を出すというのです。
  四番目は「楽聞の語を出す」今まで生きてきた中の一番楽しかったこととか、そういう思い出をしゃべるようになるというのです。
  五番目は「随順の語を出す」大聖人様の教えに従う言葉、あるいは師や親に従う言葉、そういう帰依する仏や、尊敬する人に対する随順の言葉をもって亡くなっていく。
  六番目は「利益の語を出す」信心の有難さといいますか、しみじみと「自分はこの信心をやってきてよかった」とか「自分はこういう功徳を頂いて本当に有り難かった」とか、自分が長い間の信心を通した中で、本当に心打たれた、大聖人様の仏法を有り難いと感じた、一番有り難いと感じた言葉を、諄々と話すようになるということを言われております。
  七番目は「威徳の語を出す」大聖人様の仏法の偉大さ、大聖人様の教えの尊さというものを、ある自分の遺言の形として、自分はこのように大聖人様のお言葉を受け取った、自分は大聖人様のこのお言葉にこそ、まことに大聖人様の仏法の値打を感嘆しているのだ、というような「威徳の語」を遺すということです。
八番目は「眷属に背かず」つまり兄弟とか親子とか親族とか、そして又同志の皆さんの中で、広宣流布のために、仲良く、異体同心の信心をもってやっていって頂きたいとか、そういう眷属に背いてはいけないと、父母や兄弟をみんな仲良くと後々のことを託していく。そういう眷属の和を説くというのです。
九番目は「人天は敬愛す」と申しまして、世間の人も、諸天善神も、その人を称えるようなそういう言葉を遺していくという訳であります。
  それから最後に十番目は「仏の所説を讃ず」この仏法を賛嘆して亡くなっていくというのです。(大正蔵三−三三一・B)
どうですか皆様方は、この正宗の信心を全うした人の臨終に立ち会ったとき、あるいはお見舞いのときや、看病したときに、いつとはなしにそういう言葉が、やはりそういう先輩の人達の臨終の言葉の中に、ただ今申し上げました十種の姿のどれかが、あるいはその全てがあるかも分からない。その中の五つ六つがあるかも分からない。どれかの言葉というものがその人の臨終の上に必ず出てきている。ああそう言えばはそうだったなあ、ということの心打たれる部分があると思うのであります。
  中には、ある人が臨終のお見舞いに行ったというのですね。たまたま暑いものですから、扇子で扇いであげたのですけれども、その扇子を、まさに臨終を迎えんとする人の顔の上に落としたというのです。「ああ、痛いッ!」と言って、それが臨終の最後の言葉だったということもあります。だからお見舞いに行く人もよく気を付けて頂きたいと思うのですね。
  それから又、尾崎紅葉という人は、臨終の時に、みんなお弟子さん達が集まっていたというのですね。そのときに、もうこれが最後だと思って、お弟子さんが「先生ッ!」と声を掛けた。尾崎紅葉の最後の言葉が「どいつもこいつも、まずい面だ」と言って亡くなったというのです。ゲ−テは、「光よ!光よ!」と言いながら亡くなっていったとも言われております。その人の一生の結果がそこに現れてくるのです。
  皆様方も自分の最後に、子供に、あるいは妻に、あるいは夫に対して、家族に対して、どのような臨終の言葉を遺せるかという事を考えまして、今日を生きていくということも、大切だと思うのであります。「臨終の事を習うて後に他事を習うべし。」という大聖人様の御指南を通して、私達も一つお互いの信心を、今一度、よく考えてみる必要があると思うのであります。今日は、臨終の言葉、言葉の上における、正宗の、大聖人様の信心を全うした人の清浄な言葉という事を申し上げまして、御挨拶に代える次第でございます。大変、御苦労様でございました。
(昭和六十三年一月二十四日)

戻る