妙光寺通信 法華講員の皆様へ (1−19)

「一閻浮提第一の御本尊」

 信仰はどんな信心でもよい。何宗でも同じようなものだと安易に考えている人はいませんか。

 信仰にも実は根本的な善悪があり、正邪があり、浅深があり、信じて良いものと、断じてやってはならないものがある事を知らねばなりません。

 日蓮大聖人は「本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)」に、
「本尊(ほんぞん)とは勝(すぐ)れたるを用(もち)ふべし」(御書 一二七五頁)と言われ「諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)」には、
  「一閻浮提第一(いちえんぶだいだいいち)の御本尊(ごほんぞん)を信(しん)じさせ給(たま)へ」(御書 六六八頁)と御教示の如く、信仰の中心である御本尊は最も尊い、最勝の御本尊でなければ信仰に値しないのです。

 その点、日蓮大聖人が建立された本門の本尊は大聖人御自身が「観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)」に、
「一閻浮提第一(いちえんぶだいだいいち)の本尊(ほんぞん)此(こ)の国(くに)に立(た)つべし。月支(がっし)、震旦(しんだん)に未(いま)だ此(こ)の本尊(ほんぞん)有(ましま)さず」(御書 六六一)と明言されているように、まさに世界一の最善の御本尊なのです。

 従って日蓮正宗信徒の皆様は、日蓮大聖人の仏の御境涯と、最高の教理と智慧にもとずく唯一絶対の御本尊を信仰の根本とする最第一の信仰を貫く者との確信を持ちましょう。

 日蓮大聖人は「持妙法華問答抄」に、
「されば持(たも)ちたる法(ほう)だに第一(だいいち)ならば、持(たも)つ人(ひと)随(したがっ)って第一(だいいち)なるべし」(御書 二九八頁)と仰せ遊ばされています。

 御本尊が第一ならば、教義の正しさも第一、信仰する者の功徳も第一なのだという大確信のもとに、第一の正法を弘通して多くの人々を救い、幸せなよろこびを分かち合えるように折伏教化することを忘れてはなりません。 

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