妙光寺通信 法華講員の皆様へ (1−27)

「折伏の実践こそ大事」

  平成二十一年の立正安国論正義顕揚七百五十年を目指して、今宗門は御法主日如上人の指揮の元、総本山を中心にして全世界一丸となって、正法広布の大道を地涌の眷属の倍増を目標として、全寺院の法華講において精進されております。その中においてほんの一握りの人と思いますけれども、この折伏について深い猊下の御指南とその心を知らない信徒がいるように思います。
  確かに、一家和楽の信心、一家で苦難を乗り越えた体験、喜び三宝尊に対する感謝御報恩の気持ちは誰にも忘れることはできないと思います。しかも座談会をメインに例え小会合といえども有意義に楽しい会合にしなければなりません。
  しかし、楽しい信心、信心は楽しければいいということが第一義になってきますとこれは全く信仰の本義を失っております。折伏弘通は大聖人様の御遺命であり、日興上人の誓願であり、誰人も忘れてはならない大事な仏道修行であります。大聖人様の御一代の御化導を拝するときに、佐渡における大聖人、身延の沢における大聖人、竜の口における大聖人、大聖人様の忍難弘通の御化導を拝するならば、一日たりとも折伏を忘れてはなりません。折伏を忘れた信仰は日興上人の、
   未(いま)だ広宣流布(こうせんるふ)せざる間(あいだ)は身命(しんみょう)を捨(す)てて随力弘通(ずいりきぐづう)を致(いた)すべき事(こと)。
(御書1884)という遺誡置文の御精神と相反するものと言わなくてはなりません。大聖人様の『教行証御書』を拝しますと、
   慥(たし)かに此(こ)の法門(ほうもん)は、汝等(なんだち)が如(ごと)き者(もの)は人毎(にんごと)に座毎( ざごと)に日毎(にちごと)に談(だん)ずべくんば、三世諸 (さんぜしょ) 仏(ぶつ)の御罰(おんばち)を蒙(こうむ)るべきなり。(御書1107)と仰せでございます。人毎に座毎に日毎にと大聖人様は仰せになられております。また、
   日蓮(にちれん)が弟子等( でしとう)は臆病(おくびょう)にては叶(かな)ふべからず。彼々(かれがれ)の経々(きょうぎょう)と法華経( ほ け きょう)と勝(しょう)劣(れつ)・浅深(せんじん)・成仏不成仏(じょうぶつ ふ じょうぶつ)を判(はん)ぜん時(とき)、爾前迹門( に ぜんしゃくもん)の釈尊(しゃくそん)なりとも物(もの)の数(かず)ならず。何(いか)に況(いわ)んや其(そ)の以下( いげ )の等覚(とうがく)の菩薩( ぼ さつ)をや。まして権宗(ごんしゅう)の者(もの)どもをや。法華経( ほけきょう)と申(もう)す大梵王(だいぼんのう)の位(くらい)にて、民(たみ)とも下(くだ)し鬼畜( き ちく)なんどと下(くだ)しても、其(そ)の過(あやま)ち有(あ)らんやと意(こころ)得(え)て宗論(しゅうろん)すべし。(御書1109)
という大聖人様の尊い御教導を拝しますときに、信仰は正しくなくてはならず、折伏の体験を互いに切磋琢磨して精進しようと志すことを、意味がないと言ったり、面白くないと言ったり、マンネリ化している、もう古くさい等と言って折伏の精神を失ってしまう、折伏折伏と今のように昔の人は言わなかったと言いますが、折伏折伏と言われなかったことの方がおかしいのであって、大聖人日興上人の時代は毎日が折伏であり、常に折伏であり、行くところ行くところ常に折伏であったのであります。日目上人も天奏の途上に命を落とされたのでございます。折伏を忘れ精進をさぼった時代の方がおかしいのである。今日の折伏の大事を常に説かれる猊下の御指南こそ大聖人のお心に叶うものと確信しなければなりません。もっともっと折伏の実践に精進していかなければなりません。その事をいち早く気付いて折伏弘通と法統相続を何としてもやり抜く尊い信心を思い起こしていただきたいと思います。その大事について目覚めていただきたいと思います。

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