平成15年5月7日の妙教に掲載されました記事を、3回に渡って連載いたします。

第1回 ・ 第2回 ・ 第3回

下記より掲載文面
今回は、東京妙光寺に常宣院日至御尊能化をお訪ねして、御尊能化の生い立ち、
得度の頃のこと、 妙光寺の御歴代、特に大東院日明贈上人のことをお伺いした。


御師範大東院日明贈上人

  
       明治28年 妙光寺本堂落成式      妙光寺初代・広布院日荘贈上人


  
妙光寺第五代・円妙院日影上人  昭和8年頃 中央妙光寺第二代・大慈院日仁贈上人



昭和三十八年、旧本堂最後の記念撮影
中央大東院日明贈上人、左端常宣院日至御尊能化


能化補任の砌 常宣院日至御尊能化



編集部 常宣院様におかれましては御法務誠に御繁忙の中にもかかわりませず「源遠ければ流れ良し」の取材をお引き受けくださいまして誠に有り難うございます。まず、常宣院様の生年月日並びに御出生地をお教え願いたいと思います。

常宣院 生年月日は昭和十二年十一月四日です。当時父が満州鉄道に勤めていました関係で、満州国奉天市(現在の中華人民共和国洛陽市)蘇家屯という所で生まれました。当時の町名は、白馬町といって日本人街だったのですね。蘇家屯という所に満鉄の機関区がありまして、そこで父は鉄道技師をしていました。
 父が鉄道技師をしていたので、終戦になってソ連軍が進駐してきても、私たち家族はなかなか日本には戻れず、昭和二十一年の七月にやっと日本に引き上げてきたのです。それで、日本の小学校三年生の二学期から学校に通うようになりました。でも、その当時は戦後の物不足で、学校に行っても一学期分ずつしか教科書をくれなくて、私は教科書がないので人の物を一生懸命写しました。その頃は、途中から学校に入ると教科書もない時代でした。満州にいた頃は動乱で学校は閉鎖されていましたので、引き上げて来て、小学校の三年生になって初めて算数の「九々」を習いました。
 毛沢東ひきいる八路軍と蒋介石ひきいる国民党軍が各地で戦っていて、学校は兵舎になっていて、学校には一年半くらいしか行けませんでした。その頃は、日中戦争よりもそういう内乱の方が恐ろしかったですね。女の人達はソ連兵が来ると男装してトイレに隠れたりしてね。


編集部 それでは、常宣院様の御実家はいつ頃入信されたのですか?

常宣院 日本に引き上げてから、父は住友軽金属に勤めるようになったのですが、疲れが治まっていたのでしょうか。昭和二十三年一月二十日に脳溢血で亡くなってしまいました。日本に帰って来て二年足らずでした。
 その前に日本に引き上げて来た時、兵庫県の寺畑という所に実家があったので、一時そこに居たのですが、実家の世話になるにも大変な時代でしょう。それで次に川西市久代に引っ越して、そこで父が亡くなるのですけれど、次に隣の加茂という所に引っ越すのです。
 そこで池田市源立寺(現在正信会により不法占拠)の、後に講頭までやった古江正義さんという人がいて、そのお母さんに私の母が教化されて、父が亡くなつた昭和二十三年の夏頃入信をしたのですね。


編集部 それでは、常宣院様の御出家の動機はどの様なことだったのですか?

常宣院 父が亡くなつて、その後源立寺の信徒になって、当時源立寺の御住職だった浅井廣龍師が夏のお盆に御経廻りにお見えになられて、私は母の言い付けでいつも御住職が御経をあげている後ろから団扇で扇ぐ役だったのです。そのうちに浅井廣龍師から僧侶にならないかと何回か進められたのです。
 とにかく浅井師が言うには「僧侶は一生勉強なんだから、一生勉強が出来る」ということと、それに、浅井師は御自分では弟子は取らないで、僧侶になりたいという人がいたら、東京の妙光寺にいらした兄弟子の大東院(品川妙光寺第六代住職・大東院日明贈上人)さんの弟子にしようとのお考えがあって、「僧侶になって東京にいったら大学に行けるように頼んであげるから」と言われて。私は勉強がしたいということと、大学に行きたいというのが重なつて僧偲になることに決心したわけです。その当時はみんな中学を出たら就職をする時代だったのです。高校も今のように当たり前のようには行けない。まして大学に行く人なんて、本当に少なかったのです。だからその時に 「大学に行かせてあげる」ということは大変な夢だったのです(笑)。
 浅井師が一往、勉強の好きな子供ということを認めて下さって、私の範子になるよりは東京に行って勉強をした方がいいということで、大東院さんを紹介して下さいました。
 ですから初発心の師匠は浅井師で、浅井師の紹介で大東院さんの弟子になったのです。昭和二十九年の八月に源立寺に入って、十月八日に度牒を頂いて、その月の二十五日に妙光寺の御宝前で得度の式を挙げて頂きました。しかし、その時私はまだ高校生だったので、大東院さんが「東京に来るのは高校を卒業してからでいいよ、卒業するまでは源立寺で御奉公しなさい」と言ってくださったので、卒業するまでは源立寺に在勤をしていて、学費なんかもみんな大東院さんが送って下さったのです。
 そのような得度の因縁があったので、東京に来てからも休暇を兼ねて、二〜三年ぐらい、夏のお盆の頃には瀕立寺に帰ってお手伝いをしていました。当時は新幹線がないから東京から大阪の源立寺まで急行で十時間以上かかりました。


編集部 では次に、御師匠様である大東院様の思い出などお聞かせ下さい。

常宣院 そうですね。大東院さんには御仕えして長いから思い出は沢山あるのですが、一番記憶にあるのは、とにかく読書家であったということですね。
 私が妙光寺に来た当時、妙光寺の住職は中島円妙院(妙光寺第五代・円妙院日彰上人)さんで、副住職が大東院さんだったのです。それで、御食事なんかは円妙院さんと大東院さんが奥でなさって、ちゃんと朱塗の御膳があって、私たち弟子は御給仕盆を持って御食事の間側に控えているのです。そして、奥の庫裏には、二階の、書斎といわず廊下といわず大東院さんの本棚がいっぱいありまして、食事中円妙院さんの側に控えていると、円妙院さんが「ここに本が沢山あるけれど、柿沼はこの本を全部読んでいるよ」と仰るのです。実際本を手に取ってみると、裏表紙にその本の特徴と要点が、大東院さんの字でメモとページ数が書いてありました。大東院さんは「これは」と心を動かされた所はなそのようにメモをされていたのです。
 それと、博覧強記という言葉がありますけれど、多くの本をお読みになり、またよく記憶をされていました。忘れないというか、とにかく博識で物知りでしたね。だから、人と話をしていても話が途切れたりしない。人の気をそらせない、何でも応えて座を明るくする、という方でした。だから、大東院さんがいると座が和やかになるというか、それでいて頓知もきくしね。
 昔NHKで「頓知教室」という番組があった時に 「わしも出てみるかなあ」なんて仰っていました (笑)。
 それと、昔『大日蓮』で「富士」(現在大白法に連載中)という小説を書かれていましたし、お若い頃は「熱原法難」の小説も書いていました。それと、お若い頃『文春』か何かに作品を出したことがあって、それが入選したこともあったようです。小説家になっても一流になつたかもしれません。とにかく週刊誌・月刊誌を始め、当時英語版の「ライフ」や「リーダーズダイジエスト」「ジャパンタイムズ」なんかもよく読んでおられました。


編集部 英語は御堪能でけらっしやつたのですか?

常宣院 そうですね、英語は立正大学の英文科で学ばれましたから。その当時立正の仏教学部は正宗の人は入れてくれなかったので、しようがなく英文科に入ったそうです。ですが、中学からずっと特待生で授業料は免除だったそうです(笑)。
 大学の卒業論文は、イギリスの劇作家である「バーナード・ショウの研究」という論文で、それで立正を出てしばらく研究室にも残られたそうです。ですから、私が妙光寺にいた頃も早稲田大学教授の坪内士行氏や市川文彦氏なんかも尋ねて来られました。
 また、御法門の勉強は先師先輩についてなさったのですが、師匠は勤行が終わった後、『六巻抄』を声を出して毎日拝読しておられました。ですから、教学は毎日の日常の中でなさっておられました。
 また、ちょっとした暇を見つけては音道の稽古をしていました。港区にある戸板学園の麦田政子先生という方に来て頂いて習っておられました。そして、この先生が亡くなる時に、「自分の葬儀は、妙光寺で出してほしい」との遺言がありまして、妙光寺の本堂で葬儀を出したのです。その時に葬儀委員長で来られたのが日本書道教育学会の石橋犀水という方でした。大東院さんが 「麦田先生が亡くなってしまったので、誰か書道の先生をお世話してください」と石橋先生に言ったら、先生自らが「では私が来ましょう」と言ってくださり、日本書道教育学会の会長自らが月に一回妙光寺に来て下さるようになりましてね。この方は二松学舎大学の教授を務められ、書道論で文学博士になられた書道界では有名な方です。そして石橋先生は、大東院さんの御人柄に大変感銘を享けられまして、御信徒ではなかったのですが、妙光寺に金屏風を奉納してくださいまして、今でもそれが御宝蔵に残されています。


編集部 大東院様は各方面の色々な一流の方との御交際のあった方だったのですね。

常宣院 そうです。それと大東院さんは短歌がお好きで、昔の『大日蓮』なんかにも大分出ていますが、とにかく旅に出られると写真を撮るのではなくて、短歌でその情景を歌って来るのです。歌を思い出すとその情景を思い出す。情景を思い出すと歌が出て来る、というようなことで。脳裏に焼きついたことを歌に詠む。だから何年経っても歌を思い出せば、その情景が思い出されたそうです。


編集部 その残された歌は大東院全集にありますか?

常宣院 一度歌集として出版はしたけれど、まだ残された分は残念ながら出版はしていません。


編集部 大東院様の最初の御赴任地はどちらだったのですか?

常宣院 神奈川教会、今の横浜の久遠寺ですね。それから八幡の法霜寺に赴任されて、そこで戦争に取られて、帰って来たらお寺は空襲でなくなっていて。


編集部 その辺のことは大東院全集で読ませて頂きました。

常宣院 また、『大日蓮』に寄稿していた小説『富士』を書く時はそれまで出ている大聖人の伝記を全部読まれて、大東院さん御自身も神田にはよく足を運ばれていました。まあ、そういう面でも本が大変お好きでした。
 また、日達上人と大東院さん、観妙院さんは仰がよろしくてね。日達上人が明治三十五年のお生まれで五つ上、大東院さんは四十年、観妙院さんは四十二年のお生まれだったから、年齢も近かったし、お会式の時なんかも一緒で賑やかでしたね。御側に居るとお三方とも人間として大きく見えて、迫力はあるし威厳はあるし、近寄り難かったですね(笑)。
 大東院さんは、日淳上人の時に宗務院の庶務部長になって、日達上人の時に総監になったのですが、それ以前は宗会議貝を長らくしておられました。雄弁家でしたし、当時旭日の勢いのあった学会にも遠慮なくものを言う方だったから、随分学会からは憎まれるというか嫌われましてね。ですから何かあると青年部がお寺の廻りにピケを張って談判するということもありました。
 ある時、『読売新聞』に「学会は暴力宗教だ」という記事が出たことがあったのですが、その時に大東院さんの友達が読売新聞社にいて、それでそういうことを書かれる原因が大東院さんにあると疑われて、それでまた吊るし上げをされて、ピケを張られて。
 創価学会は昔からそういう体質で、僧侶を吊るし上げするなんて平気だったのですね。
 総監になられてからも大分学会本部でやりあって、「今日はもう、顔を見るのも汚らわしい、と言われたよ」と、帰って来てから言われたこともあったし、あんまりひどいので学会本部の机の上にあぐらをかいて 「殺るなら殺ってみろ」なんて吹呵を切ったこともあるそうですよ(笑)。

編集部 明治の方は気概というか迫力がありますね。

常宣院 でも、やっぱりとても堪え難いものがあったのでしょう。学会本部から帰ってきてから一日二日御機嫌が悪い時がありましたね。まあ、池田は三十九年頃に「不開門は会長である私が開けるんだ」なんていう増上慢なことを言っていた人だから。いわゆる妙光寺で起きた「メロン事件」の時には、私は本山の富士見庵に居て、妙光寺の現場には居なかったのですけれど、開くところによると、池田は自分の席が現下の下で総監と同列なんていうことが気にくわなかったのですよ。
   猊下と扱いを一緒にしろということなのでしょう。

編集部 本当に池田大作は昔から増上慢の極みだったのですね。話は変わりますが、大東院様は何人ぐらいの御弟子さんがいらしたのですか?

常宣院 十三名かな、宗会議長の土居崎慈成さんのように譲り弟子の方を入れればもう少し増えるでしょうが、大東院さんの弟子としては渡辺広済が一番古くて。もっとも正信会に行ってしまったけれど。その次が大阪・堺の本俸寺住職である豊田広栄師になるのです。その次が私かな。だから私は大東院さんの三番日の弟子ということですね。
 大東院さんは英語が御堪能でしたから、語学に対する修練を怠らない方で、戦争中は勿論英語の勉強は出来なかったでしょうが、戦後は英字新開や本などもよく読んでいらして、それでも日記を見ると戦後英字新開を読んで調子を取り戻すのに八年かかったと書いてありました。

編集部 アメリカやイギリスの方とも普通に会話ができたのですか?

常宣院 まあ、ヨーロッパヘ視察旅行に行かれた時に、通訳なしでも行って来られたのですから問題はなかったのでしょう(笑)。また、六十歳を過ぎてからも中国語とスペイン語のNHKの放送を開いて勉強されていました。


編集部 御師匠様が御遷化されたのは何年ですか?

常宣院 昭和四十人年十二月十三日です。六十六歳でした。
 お生まれは東京港区の麻布で、都会育ちだからあまりお体は丈夫ではなかったですねえ。淡白というか・・・。
 お母さんの家系が何でも北辰一刀流の千葉周作の血を引いているということです。
 それからお若い頃、師匠の大慈院 (妙光寺第二代・大慈院日仁贈上人・有元姓)さんの御使いで有元家の御法事の引き出物を注文するのに、愛知県の瀬戸へ行つた時、大慈院さんから「将来伸びる若い陶芸家に引き出物を造ってもらいなさい」と言われた。その時に、若き日の加藤唐九郎氏(後、人間国宝)を紹介されて、その加藤唐九郎氏と大東院さんが意気投合しました。
 そんな御縁で後に大客殿のあの鳳凰の壁画を制作してもらうのです。それもお若い頃お二人が知り合われたご嫁が元なのです。後年加藤唐九郎氏は毎日新開に大東院さんのことを書いていますよ。また、そのような御緑で加藤唐九郎氏は大東院さんと本山に来て、日達上人にお目通りもしているのです。


編集部 すごいですね。やはり一流の人は一流の人を知るのですね。
 話はかわりますが、妙光寺の御歴代の方々のお話などご存知であればお聞かせ願いたいのですが。

常宣院 もともと妙光寺は、富士の正光寺がその場所でして、明治の始めは、廃仏毀釈の絡みで新寺の建立が政府から許可にならなかったので、寺籍を移して品川に妙光寺が建立されたわけです。
 そして、その初代住職に広布院さんがなられたのです。この方は九州開導の師と呼ばれる佐野広謙尼と兄弟弟子で、広謙尼の方は第五十二世の日霹上人の御弟子となり、広布院さんは御当職であられた、第五十五世日布上人の御弟子となったのです。
 もともとこのお二万は、京都の異流義・双林寺の臨導房の弟子だったのだけれど、師匠の臨終の相が余りにも酷いので、これは師が日ごろ誹誘していた富士大石寺の教えに対する現罰ではないかと考え、そこで当宗に改衣したのが始まりだったのです。そして正宗の法門を学ばれて、後に大阪の源立寺を復興されたのも広布院さんだし、久代問答や池田市の奥にある能勢一帯の身延妙法寺の信徒を教化して、また妙法寺と法論をして大いに折伏の成果を挙げたのも広布院さんの力によるところです。また、京都の住本寺の住職として赴任され、五十世帯の信徒を二百五十世帯にまでしたとか。

編集部 雄弁家というか能弁家というか、とにかくすごい布教カを持った方だったのですね。

常宣院 うん。やはり弘教の力のすごい方で、佐野広謙尼と常に連絡を取りながら、九州でも布教講演に行かれて、だから最後も、布教に出かけられた先の佐世保の法光寺で亡くなられているのです。九州の霧妙寺、長崎、佐世保、行橋と布教の足跡を残しておられます。本山でも寂日坊の住職を務められ、総務や管長代理も務める等活躍をされた方だったのです。また、広布院さんの書かれた「宗内通俗問答大意」は、今妙観講が再版していますね。
 この広布院さんのお姿は写真がないので長い間分からなかったのですけれど、この度妙光寺百周年誌を出版するにあたって、古い信徒に色々な史料の回収を呼びかけたら、妙光寺を建立した時にこの土地を御供養された谷岸庄兵衛さんの子孫の、谷岸本家の蔵の中に、門外不出と書いた箱があって、広布院さんの写真と当時の御秘符とが一緒に出て来たのです。

編集部 ヘー。それは大発見ですね。

常宣院 この谷岸家は代々庄兵衛を名乗っていて、この本家のお屋敷に大きなケヤキの木が三本あって、それでこの土地の「三ツ木」という地名ができたのです。

編集部 三ツ木の謂われになったお宅なのですか。失礼ですが、今でもこのお宅は御信心をなさっているのですか?

常宣院 勿論です。このお宅には毎年正月には、住職が敬意を表してお経をあげに行くことになつています。当然今の御当主も立派な信心の方ですが、海外の御信徒が妙光寺にお参りになって、日本の古い法華講のお宅を拝見したいと言われると、この谷岸家に御案内することにしているのです。このお宅の仏壇は、それは総樺溜め塗の作り付けの仏壇で、素晴らしいものです。


編集部 谷岸家はこの辺二帝の地主だったのですか?

 そうそう、この辺は昔三ツ木柑と言って十二軒の農家があったのだそうです。それで、蛇窪・三ツ木・戸越と折伏の手が入った。だからその当時入信した家は、今はそれぞれ七代目ぐらいになっているのではないですか。


編集部 総代の松島さんのお宅もやはりこのご近所なのですか?

 いやいや、松島さんのお宅は今は目黒にあって、昔は京橋講の講頭だったのです。このお宅は、昔、京橋銀座二帝の土地を持っていまして、今の銀座・和光の場所に松島家の蔵があったという。当時は大変な資産家だったのです。この松島家の初代・松島和三郎という方が、勝海舟と千葉道場で同門だったそうで、勝海舟の書いた額だとか手紙だとか随分あったそうですが、宗門関係のもの以外は戦争で焼けてしまったそうです。


編集部 今あれば重要文化財級ですね。もったいないですね。
 なぜそのような大切なものを疎開させなかったのですか?

常宣院 宗門関係の古文書や御本尊などは避難できたのだけれど、その他の物はトラックが調達出来なくて空襲で焼けてしまったのだそうです。いま、松島家は八代目かな。先祖には妙緑寺の御歴代の方もいらっしやるのですよ。だから松島家は明治から大正にかけては宗門の有力な檀越だったのです。御先祖の松島覚道さんという方は在家でいながら布教師の免許を持っていらしたほどだったのですから。(つづく)

戻る
著作権