平成15年6月5日の妙教に掲載されました2回目。

第1回 ・ 第2回 ・ 第3回

下記より掲載文面
今回は、妙光寺講中の歴史、大慈院日仁贈上人の布教、特に上海や樺太に渡ったお話、円妙院日彰上人のお話を伺った。また、ご本人常宣院日至御尊能化の、妙光寺在勤時代から、総本山在勤、埼玉常生寺住職の頃の思い出、東京妙光寺住職、海外部長に任ぜられた当時の経緯等をお話し戴いた。



昭和35年 賢持院日法贈上人第13回忌の砌 前列左、御師範大東院日明贈上人

常宣院日至御尊能化

昭和6年第650遠忌の砌 左から二人め大慈院日仁贈上人、
右、円妙院日彰上人
大慈院日仁贈上人
昭和32年 妙光寺御会式の砌
後列中央常宣院
昭和33年 第5回行学講習会の砌
左より4人め常宣院日至御尊能化



昭和四十九年、常照院日修御尊能化入院式の砌


編集部 昔の妙光寺は、京橋本因妙講とか独一本門講とか、一ケ寺一支部ではなくて、色々な講中があったのですか?

常宣院 そうですね。妙光寺には代表的な講中は全部で七つありました。三ツ木・蛇窪・統一・独一本門・目白・川崎本門講・大平講等がありました。ですから私たちも所化の頃は、必ず月に七回は宅御講を奉修するため、それぞれの講中に行きました。そして宅御講では、必ずお説法、御書講義をするという決まりでした。お会式とお正月は住職が行くことになっており、合間は私たちが行くことになっていました。当時は、一月のうちに七つの講中の信徒宅での御講と、お寺での御報恩御講がありました。お盆経とは別に毎月信徒宅でお説法するわけですから鍛えられました(笑)。また、お会式の時などは、それぞれの請中で信者さんたちが『申状』を奉読されるのです。


編集部 信者さんが申状を読まれるのですか?

常宣院 そうです。講頭さんたち等の大きなお宅をお借りしてお会式を奉修するのですけれど、大変に賑やかだったのです。それに、正月とお会式だけは食事とお酒が出まして、和やかで楽しい一時でした。


編集部 御信徒宅でお会式を奉修したり、毎月宅御講を奉修したりというのは、大慈院様の時代からの妙光寺の伝統だったのですか?

常宣院 そのようです。またその頃からの伝統で、二月十六日の大聖人様のお誕生会には子供会を続けています。昔は在勤者で寸劇をやったりしたけれど、今は中学生・高校生や青年部・婦人部の人達にお手伝いを頂いています。


編集部 大慈院様の時代の伝統がまだまだ今日まで続いているということはびっくりしますね。その他に大慈院様の逸話などご存知でしょうか?

常宣院 大慈院さんはご存知の通り折伏の大家でしたから、宗門の歴史の中でも、布教講演会や弁論大会などを通じて他宗を破折されることに抜きん出ておられました。日本全国へ布教に歩かれた方だけに、何といっても海外に初めて布教に出られて、当時の上海や樺太にも行かれたようです。また、ロシア軍に焼かれてしまった樺太、真岡の開法寺などにも行かれた記録が残っています。それは、妙光寺の信者さんの中で、貿易の仕事で北海道の小樽や樺太に行っている方がいて、そのご緑によって大慈院さんも行かれたのでしょう。現在も妙光寺には戦前樺太に住んでいた方のお墓がいくつかあります。


編集部 常宣院様が樺太の真岡・開法寺の跡に追善供養のために行かれたのはいつ頃でしたか?

常宣院 四年ぐらい前でしたか、御殉教された辰野開道さんの関係者の方と旧真岡の町に行きました。


編集部 お寺の跡などはまだ残っていたのですか?

常宣院 当時開法寺に住んでいた方の記憶を頼りにどうにか特定できましたが、その場所では法要を行なえませんでした。少し離れたところから開法寺のあった場所に向かってお経をあげ、搭婆を建てて追善法要を行なって来ました。開法寺のあった場所に行くことは可能ですが、その場所は崖の淵でその周りにロシア人もいくらか住んでいるので、旧開法寺の跡で法要を行なうということもできなかったのです。


編集部 今でも真岡の町はあるのですか?

常宣院 町というほどのことではないですけれど、丘の上にいくらか人が固まって住んでいるという感じでしたね。話はまた大慈院さんに戻りますが、今妙光寺で使っている出仕太鼓も、上海の信者さんが昭和の初めに御供養して下さったものです。ちょうど、大聖人様の六百五十遠忌の時の御供養で、大慈院さんが住職であった時のものです。それと、妙國寺(現在東京板橋区) の前身の妙光院の開設と、目黒の妙真寺(現在正信会により不法占拠)の前身の信行閣の開設も大慈院さんの大きな御事績です。また、大田区大森の梅屋敷にも城南教会所がありました。こちらの方はお寺になりませんでしたが。それと、大正十二年九月一日に関東大震災があったのですが、日比谷公園にテントを張って、一か月以上もそこで炊き出しをして、連日布教をされたのです。今でもその時の大鍋が御宝蔵の地下に保存してあります。


編集部 その時、お米とかその他の食料は妙光寺から持っていったのですか?

常宣院 いやいや、講中の各方面から調達したのでしょう。そして大勢の被災者の人達に対して布教講演会を行なったのです。翌年の一月、二月にもなさっています。また、当時は軍国主義的な時代だったこともあるでしょうが、大慈院さんは、国旗をもっと大切にしなければいけないということを提唱されて、学枚、役所関係、一般の人も全国的に祭日には国旗を掲揚するようになったのだそうです。これは大慈院さんが昭和八年頃国会に提唱されて、国会の決議でその様に決まったのだそうです。ですから妙光寺にも国旗掲揚台があって、元旦や祭日には国旗の掲揚をしていました。とにかく大慈院さんは布教のためならば何でもという方でした。婦人会を作り、茶道もされ、この辺の品川消防団の団長でもあったのです。その時は消防団の格好をして足にはゲートルを巻いて、という出で立ちでね(笑)。ですから昭和十一年に大慈院さんがお亡くなりになった時の葬儀には、妙光寺から桐ケ谷の火葬場まで沿道には大勢の方が出て、大慈院さんの柩を見送られたそうです。


編集部 ヘーつ…。すごいですね。

常宣院 大慈院さんは品川の名士だったようですね。それだけみんなに惜しまれたのです。また、大慈院さんは講演の大家でしたので、講演中熱が入って来ると本当に頭から湯気が出たそうです。現在、五反田の商店街の、狩野ビル・島田ビル・金子園のお茶屋だとか、大きな店はほとんど妙光寺の檀家なのです。また慶応大学のある三田通りの藤波の紙屋や、書徳の家具屋、今はもう辞めてしまいましたが、慶応堂といって、慶応大学の学生服や記章を一手に扱つていたお店をはじめ三田界隈の大きな商家もまた、みな妙光寺の信徒なのです。それは何故かというと、当時独一本門講の人達が「日蓮大聖人の御一代記」の絵行燈を三田の通りに掲げて道行く人を折伏したと言うのですね。大講頭をしていらした由井一来さんも、前は三田に住んでいたのです。この方は妙光寺の独一本門講の講頭でもあったのです。


編集部 次に、妙光寺第五代御住職でいらした中島円妙院様(円妙院日彰上人) について何かお話し願えますか?

常宣院 円妙院さんは小田原の御出身で、若くして伊那の信盛寺の住職でおられて、信盛寺近在の日蓮宗の寺と法論をして論破したという話をよくお開きしました。


編集部 日達上人が信盛寺に入られる前のことですか?

常宣院 そうです、日達上人の前に円妙院さんが信盛寺にいらしたのですね(円妙院は同寺第四代住職、日達上人は第十三代住職辞任の後に留守居として入寺)。非常に穏やかな話をする方なのですけれど、お若かった頃は血気盛んな布教家だったのでしょう。また、円妙院さんは非常に化儀に詳しい方で、総本山での御生活が長かったこともあったのですが、今ある新説免許の時の色々な資料は、円妙院さんが収録されたものが随分あるのです。



編集部 円妙院さんはどなたのお弟子なのですか?

常宣院 第五十五世日布上人のお弟子です。それと、昭和二十年六月に日恭上人が御遷化された後、十一月まで管長代務者を務められました。客殿、大坊等が焼けてしまった戦後の大変な時期に、猊下に代わって山内統率の任に就いていらっしやつたのです。そのような苦労話もよくされていました。昭和二十年の終わりから三十年の始めにかけて、円妙院さんは妙光寺の奥にいらっしやいましたから、その当時入信した方は、紹介者と共に、御授戒が終わると奥の円妙院さんの所に御挨拶に行かれたのです。やはり、円妙院さんのような年功を経られた御老僧に激励して頂くと、みんな歓喜したということです。



編集部 では、次の質問に移らせて頂きます。常宣院様の学衆・所化時代の思い出をお話し下さい。

常宣院 私は昭和三十一年四月から妙光寺に在勤になりました。そのころは、有川岳道師・能勢昭済師・豊田広栄師・土居崎慈成師等、そうそうたる人達が先輩でいました。有川師(清水・妙盛寺御住職)には先輩としてよく色々なことを教わり面倒を見て頂きました。また土居崎師(鎌倉・護臥寺御住職、宗会議長)とはずっと一緒に在勤していました。土居崎師は、子供の頃から妙光寺に居たので一番長かったですね。当時妙光寺では、大きな樒を購入しまして、それをお墓用と家庭用に細かく作り直すのが所化の仕事でした。それが本当に大変な仕事で、正月前なんかは三千束ぐらい作らなくてはいけなくて。


編集部 三千束ですか…。それは大変ですね。

常宣院 その当時は、土曜、日曜の午前中はその樒の束を作るのが所化の仕事でした。

編集部 総本山の在勤は何年からなのですか?

常宣院 昭和三十六年三月からです。この時同じ在勤だった人は、亡くなった早瀬議長(義雄御尊師)さん、常在寺の細井珪道師・一月寺の笠松澄道師・久遠寺の木村真昭師・法栄寺の今野慈晋師、それと日向から正しい日蓮正宗の化儀を勉強したいということで、山石切智順師も在勤されていました。山形の渡辺哲照師もおられました。そして、その墳初めてバンの車をお山で買いまして、寺族同心会や寛師会の景品を富士宮まで車で買いに行くお供をしたものです。何しろお山で初めての車だったから、珍しかったですね (笑)。私も東京へ戻ってすぐ免許を取り、妙光寺でも中古車を買いました。またその時代のお仲居さんは、私の初発心の師匠であった浅井廣龍師が下之坊に来られて勤めていらっしゃいました。その後総本山の在勤が終わって一度妙光寺に帰って執事をしていたのですが、すぐまた日達上人に呼ばれて本山に帰ったのです。そして学生の面倒を見る係になって、色々勉強等を教えていたのです。その頃、今の御法主上人が宗務院の教学部長でいらして、主任理事(常要院日照御尊能化)さん、高木庶務部副部長さん等と、最初の教師必携を、教学部長でいらした御法主上人より御指導を頂きながら編集させて頂きました。


編集部 次に、浦和の常生寺時代の思い出などお話し下さい。

常宣院 常生寺に入ったのは、昭和四十二年一月のことです。この頃埼玉県は東京の教区と一緒だったのです。その後、埼玉もお寺が増えて来て埼玉教区として独立するのですが、その頃から学林で六巻抄の試験が始まって、教区のみんなで月に一回集まって六巻抄の勉強をしましたね。その後、六巻抄が終わって、本尊抄文段の勉強をして、楽しかったですね。それと、教区のみなさんの御供養で、川口の得法寺を建立したことです。土地の方は常生寺で御供養させて頂いて、建物は教区のみなさんに御供養頂いて、教区全体で一ケ寺建立寄進することができました。それと、常生寺にも法華講が誕生したということです。これは五十二年の頃、在勤者の河野平道師と北海道日正寺信徒だった市原さんと三人で勉強会を初めて、それが法華講を作る切っ掛けとなったのです。この市原さんという人は 「法華講随感」を書いた人で、元は九州にお住まいの方だったのですが、日本甜菜精糖という会社に勤めて北海道に行かれて日正寺の預かり信徒になっていたのです。その後川口市に引っ越してこられて、日正寺の秋山御尊能化(常義院日誉贈上人)の御紹介でこちらに来るようになって、それが、五十四年の九月に四十六世帯ほどになって、十月に支部結成になったのです。その頃は学会との問題で学会を脱会して来て法華講になる人も多かったのですが、この市原さんが法華講支部結成の発起人のような形になつて支部結成式をすることができたのです。



編集部 この市原さんという方は九州のどちらのお寺の御信者さんだったのですか?

常宣院  行橋市の正妙寺の信者さんで、代々総代を勤める家に生まれた、元々からの法華講の方です。誠にしっかりした信心の方で、単身赴任していても毎朝御飯を炊いて仏飯をお供えするというふうな方でね。だから、大自法にしても大日蓮誌にしても月に三回ずつ読むという信念の方で、新しく法華講に入って来た人達に対しても「法華講の信心とはこういうものだ」と言えるのは、やはり常日頃から自分自身が信心修行を実践しているからなのでしょう。市原さんは、法華講精神というものを新しい人達にはっきりと言ってくれる人です。住職としては時として言いづらいこともありますが、市原さんはそういうこともちゃんとみんなに教えてくれて、だから随分助かりました。あの人の指導力と影響力によって、かなり「法華講とは何ぞや」ということを教えられた人が多いと思います。そしてその頃、寺報に色々と書いて来ていたものが元になってできたのが、あの「法華講随感」なのです。


編集部 常宣院棟が浦和常生寺時代よりずっと発行していらっしゃいます「日曜講話」はいつ頃から出されているのですか?

常宣院 あれはやはり、学会の謗法が明らかとなつて来た五十二年路線の頃から、日曜の朝勤行の後に話をするようになって、それを纏めて出すようになつたのが始まりかな。ちょうどその頃常生寺の十周年でもあったのです。その十周年の記念法要に日達上人にお出ましを頂いて、その時は得法寺の落慶と常生寺の十周年記念法要とが午前・午後とありまして、みなさんには忙しい思いをさせてしまったのですけれど。十周年に建物だけを建てて終わりというのではなくて、自分でも何かを始めようという思いがありまして、「日曜講話」を始めることにしたのです。十周年の発心という意味でね。


編集部 ちょうどその頃が学会の五十二年譜法路線の真っ盛りであったわけですが、その頃の御苦労はどのようなことがありましたか?

常宣院 苦労というほどのことはなかったけれど、やはりこれから宗門はどうなってしまうのかという思いと、それと、学会が次から次へと独自路線を打ち出して来て、とうとう来るべき時が来たのかなという思いでした。昭和五十一年の十二月に秩父の法生寺が落慶されたのですが、学会の方の能収度がギスギスして、何か本当に嫌な雰囲気でした。工事の方も遅れていて、教区僧侶が打ち合わせに行っても畳も入っていなくて土間のままで打ち合わせをするような状態で、それに打ち合わせをしていても学会側は白々しくて乗って来ない、ありありと非協力という態度が見えていました。

編集部 あの人達の慰懲無礼は常套手段ですからね。

常宣院 万事につけ、そういう嫌な思いをしました。そういう意味で五十一年から五十二年までの間は嫌な一年でした。

編集部 では次に妙光寺に入られてからのお話をお開きしたいと思います。

常宣院 妙光寺には、昭和六十二年四月に常照院様(妙光寺第七代御住職野村日修御尊能化) が御遷化になって五月に赴任するわけですが、私はその時満四十九歳でした。先輩も大勢いるし、「私のような若輩者が妙光寺の住職になるなんて」と御法主上人に申し上げましたら、御法主上人は「年を取ってから住職になってどのような仕事が出来るのか。任命するのは私がするのだから、しっかりと勤めなさい」との有り難いお言葉を頂戴いたしました。それせ妙光寺の住職を拝命いたしたのですが、でも妙光寺の歴代の御住職はみな御能化でしょ、こつちはまだまだ若いし、私の上にまだ先輩方が九十人ぐらい居らしたのですから (笑)。それに妙光寺は由緒寺院でもありますし、本当に恐縮でした。しかし、私は妙光寺で出家をし、修行もし、大東院さんにもお仕えして来ましたので、御信徒の方々は喜んでくれました。ちょっと荷が重いという感じがしましたが、法華講の方々は、総代も講頭も大変に喜んでくださって、その点は本当に有り難かったですね。それで、さっきもお話ししたように、妙光寺には七講中あって、それぞれみんな設立の因縁が違ったわけです。それぞれの講中に常住御本尊・導師御本尊も御下付されていて、活動もそれぞれの講頭を中心にやっていたのです。しかし、各講中も大きくなって遠隔地の方も増えて来ましたので、各講中を一本化して、一支部として地域制のもとに再編成したのです。

編集部 それは昭和何年のことですか?
常宣院 六十二年に私が入った年です。五月に住職として妙光寺に入って、すぐに講中再編成の通達を出して八月から実施したのです。

編集部 反対はなかったのですか?

常宣院 それはなかったですね。常照院さんの時から少しずつ作業が始まっていました。それと私もびつくりしたことは、「講中御本尊と講中導師御本尊をお寺に収めなさい」と言ったら、一人の反対もなく、みなさん 「ハイ」と返事をして全部収めてくれたことです。これは有り難いことでした。

編集部 妙光寺には現在収蔵されている、御歴代の御本尊は何幅ぐらいあるのですか?

常宣院 すべて含めると、約百八十体収蔵されています。先の講中御本尊等全部含めた数ですが。だから御霊宝虫払会は、収蔵している御本尊を全部お出しできないので、三分の一ずつお出しして、御奉掲することにしています。

編集部 常宣院様はこれまでに、どのような役職を御歴任されてこられたのですか?

常宣院 宗会議員を三期務めて、あと全国布教師と埼玉教区の宗務副支院長を務めさせて頂きました。それまではどちらかというと教学部の出版関係の仕事の方が多かったのですが、妙光寺へ赴任した翌年、昭和六十三年八月三日に海外部長の御任命を頂いたのです。その時も、御法主上人より総本山に来るようにお呼び出しがありまして、「海外部長として海外の仕事をするように」と直々にお言葉を頂いたのです。未経験のことではありましたが、二日後に、御法主上人直々の御命であり、謹んでお受け致しました。 (つづく)


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