信を以って入ることを得たり

妙光寺通信(平成16年10月3日)

法華経譬喩品ひゆほんに、

舎利弗しゃりほつ 尚此なおこきょうおいては しんもっることをたり」(開結一七四)

と説かれています。

すなわち釈尊の十大弟子の中で、智慧第一とうたわれた舎利弗尊者でさえも、仏道を成就し、成仏を果たすことが出来たのは舎利弗の智慧によったのではなく、釈尊の法華経における説法を聞き、その教導を信じ、随順したことによって成就したと説かれているのです。舎利弗もその余の弟子達もすべて、仏の正しい教えを信ずることによって悟りを得、仏の境涯に入ることが出来たのです。「信」の一字が如何に大切であるかということを知って下さい。

日蓮大聖人は今日の悪世末法の時代の人々が仏となる為の具体的な方途を示されて、

信の一字を以て妙覚みょうがくの種子と定めたり。今日蓮等のたぐい南無妙法蓮華経と信受領納りょうのうする故に無上宝聚むじょうほうじゅ不求自得ふぐじとく大宝珠だいほうじゅを得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄だごくの因なり。」(『御義口伝』御書一七三八)

と教示せられています。

最第一の御本尊を信じ、正しい仏の教導に従い南無妙法蓮華経を信受してこの行を貫く時、求めずして無上の宝、すなわち一切の功徳を得ることが出来るのです。法が尊く教えが正しいが故に、信の一字を以て一切を成就することが出来るとは何とすばらしい信仰ではありませんか。