天英院殿について

妙光寺通信(平成17年9月5日)

大石寺の三門を寄進した江戸六代将軍家宣公夫人天英院てんえいいん殿は、関白太政大臣近衛基熈もとひろ公を父とし、後水尾院の第一皇女常子内親王を母として、寛文六年(一六六六年)三月二十六日に京都で出生されました。

此の年の始め、一月四日に御影堂を建立寄進された蜂須賀敬台院きょうだいいん殿が逝去されたのでした。京都上行院日衆の母が天英院の乳母となった事から、母の常子内親王が上行院日衆、後の常泉寺七代日顕贈上人に帰依され、当家の信仰が天英院殿に受けつがれました。

天英院てんえいいんは延宝七年(一六七九年)十二月二十八日六代将軍家宣公のもとに入輿、江戸上行院の檀那となりました。しかし京都上行院の日衆が貞享元年(一六八四年)日顕と改名し、常泉寺住職となられてよりは常泉寺の檀那となられました。

此の縁により常泉寺は家宣公の養女の菩提所として宝永七年(一七一〇年)朱印三十石と三四〇〇坪の土地の寄進を受け、翌正徳元年(一七一一年)には幕府より江戸城本丸客殿をも寄進されました。

さらに天英院てんえいいん自身、正徳四年(一七一四年)には常泉寺本堂造営の為に一五〇〇両を寄進されました。なかでも亨保二年(一七一七年)八月二十二日の大石寺三門の落成に当たっては正徳二年(一七一二年)の夏、幕府より黄金一二〇〇粒と富士山の大木を七十本寄進されたと伝えられています。

常泉寺七代日顕贈上人の弟子寿命院師が後の大石寺第二十五代日宥上人であり、天英院は深く日宥上人に帰依され、外護の大任をはたされ、寛保元年(一七四一年)二月二十八日七十六歳で逝去されました。

遺言によって常泉寺へ納められた大聖人の御真筆御本尊は現在向島常泉寺に厳然と格護されております。