正直に仏の教導に従え
妙光寺通信(平成16年11月7日)
ジョージワシントンの桜の木の話のように、人間にとって「正直であれ」と言うことは、世間の実社会にあっても大切なことです。ましてや信仰の世界においては、なおさら守らねばならない規範です。
インドの釈尊が本懐の経典として説かれた法華経の方便品において、
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(開結124)と説かれて、正直に爾前( にぜん)の方便を捨てて法華経を説き、その最尊真実の教えに従うべきであると説かれています。
今日の悪世末法の仏である日蓮大聖人は、さらに正直の本義について、
「然るに日蓮が一門は、正直に権教(ごんぎょう)の邪法邪師の邪義を捨てて、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華(とうたいれん げ)を証得して常寂光(じょうじゃっこう)の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。」(『当体義抄』御書701)と示されています。つまり仏様の教導は究極のところ、爾前権教(にぜんごんぎょう)の邪法邪師の邪義を捨てて、正直に正法正師の正義を目指すものでありますから、正直を旨とする弟子も仏の教導にならい、邪法邪師の邪義の枝葉を捨てて、根本の正法正師の正義に敢然と帰依する勇気が必要であります。
今日の池田創価学会員は全て池田大作という人に就いて信を起こし、その信心に執著し、正法正師の正義に就くことが出来ないのです。正邪の峻別をする事を拒否し、恐れ、心の不正直者となっているのです。
何と悲しい、哀れな人達ではありませんか。