SGIの御書見直し論

妙光寺通信(平成20年4月6日)

かつてSGIと創価学会本部の要請により、海外メンバーに対して出張御授戒が何十回か実施された事がありました。私もフィリピン、マレーシア、フランス、イタリア等々に出張命令を受けて出張した事がありました。学会本部より学会の職員並びにSGIのアジア部長、ヨーロッパ部長も同行しており、長い飛行機中の会話の中で、当然SGI会長の話並びにSGIの考え方、広布観についての話し合いも行われた。そうした彼等との話題の中で私が非常に驚いた事が二つあった。

一つは池田が例えばローマ法王と会見しても、実質的な実りの多い会談とはならないと部長たちがあっけらかんと話していた事である。なぜなら、一時間の会見でも通訳を通して挨拶を交わせば、それだけでも十五分は過ぎてしまう。次いで、お土産の交換があり、お世辞を言っている間に一時間は終わってしまう。池田と重要人物との会見もこんな程度のものなのかと思った。

もう一点は、これは久野アジア部長からの発言であったが、日蓮大聖人の御書中、「念仏無間」、「禅天魔」、「真言亡国」、「律国賊」等の日本の各宗派を破折された大聖人の御書は世界広布に対しては何の意義も持たない。したがって、これからは世界に通用する普遍的な御書を中心に伝えていかなくてはならない。世界広布の為には、そうした作業がどうしても必要になってくるという意見であった。しかし、これは日蓮大聖人の御書や教義に対して、私達凡人が勝手な了見を以って広布に役立つとか役立たないとか軽々に論評すべきものではないであろう。しかもまた、そうした御書を日本に留め置いて、海外メンバーに触れさせないという事は海外メンバーの信仰とその理解を蔑む事になる。

何よりも「日興遺誡置文」第一条の
      富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
との御遺誡を忘れてはならない。SGIのこうした考え方は、日蓮大聖人を冒涜していると言わざるを得ない。