14.悲母の蘇生
1264年/43歳/弘長四年
この頃から一層多くの大地震が起こり大疫病が流行、今まで以上に大勢の人たちが亡くなっていきました。
親を亡くした子供たちや生き別れになった人たちが食べる物もなく、苦しみと不安のどん底の中での生活を強いられていました。大聖人様も古里に残して行った両親のことをいつも思いだし、心配をしていました。
『立宗宣言』以来十二年振りの帰郷ができる機会を得て古里に帰りました。
しかしいまだに地頭の景信は重時・長時の突然の変死にも恐れおののくことも無く、こしたんたんと大聖人様の命を狙っていました。そのような中での帰郷には訳がありました。それは母の危篤の知らせがあったからでした。
父が亡くなったときは帰れず、そして今度は母のためにどうしても帰って『病気が治るように』題目を唱え母への報恩のために御祈念をしたかったのです。そしてお母さんは不思議にも臨終の状態から抜け出し、しだいに良くなりました。それから以後、四年の間寿命を延ばして生涯を安穏に暮らしました。