8.境内で説法

1253年32歳/建長五年

「立宗宣言(りっしゅうせんげん)」をされた足(あし)で清澄寺(せいちょうじ)に戻(もど)り、師匠(ししょう)の道善房(どうぜんぼう)や兄弟子(あにでし)たちをはじめ廻(まわ)りにいた人(ひと)たちの前(まえ)で、念仏宗(ねんぶつしゅう)・禅宗(ぜんしゅう)の間違(まちが)った教(おし)えを厳(きび)しく追及(ついきゅう)しました。

「西方十万億土(さいほうじゅうまんおくど)という架空(かくう)の浄土(じょうど)を説(と)き念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えて死(し)んだ後(あと)に往生成仏(じゅうおうじょうぶつ)が出来(でき)るなどと民衆(みんしゅう)を惑(まよ)わす信仰(しんこう)は邪道(じゃどう)である。成仏(じょうぶつ)は、この世(よ)の中(なか)にあるものだ!」

と今(いま)までの教(おし)えを完全(かんぜん)に否定(ひてい)をし、幸(しあわ)せは生(い)きている現実げんじつ)に求(もと)めるものだと教(おし)えました。そして「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」の法華経(ほけきょう)の信仰(しんこう)につくことが、唯一(ゆいいつ)自分(じぶん)の命(いのち)を磨(みが)き幸(しあわ)せになる道(みち)だと解(と)きました。

しかし総(すべ)ての人(ひと)たちは念仏(ねんぶつ)や禅(ぜん)の教(おし)えを信(しん)じきっているので、たちまち大聖人様(だいしょうにんさま)の言葉(ことば)に驚(おどろ)き、怒(いか)り、敵対(てきたい)するようになりました。

師匠(ししょう)の道善房(どうぜんぼう)も地頭(じとう)たちの権力(けんりょく)を恐(おそ)れて、ただ押(お)し黙(だま)るしかありませんでした。そして安房(あわ)の国(くに)の地頭(じとう)・東条景信(とうじょうかげのぶ)が烈火(れっか)のごとく怒(いか)り、大聖人様(だいしょうにんさま)に危害(きがい)を加(くわ)えようとしましたが、兄弟子(あにでし)たちのお陰(かげ)で無事(ぶじ)に難(なん)を逃(のが)れることができました。

自(みずか)らの身(み)の危険(きけん)を知(し)りながら、その足(あし)で両親(りょうしん)の所(ところ)に行(い)きました。長(なが)い遊学(ゆうがく)からもどったあいさつと「法華経(ほけきょう)こそ第一(だいいち)の教(おし)えだ」と帰依(きえ)することを勧(すす)めました。お父(とう)さんもお母(かあ)さんも立派(りっぱ)になった姿(すがた)をみて喜(よろこ)び、大聖人様(だいしょうにんさま)を信(しん)じ入信(にゅうしん)をされました。