御一代記
15.龍の口

処刑場に着かれた大聖人は、悠然と題目を唱えられ、首の座のつかれた。兵士達は大聖人を取り囲み、その中の1人が首を斬ろうと太刀を振りかざした。その時、突如巨大な光物が現れ、兵士の刀は折れて、その場に倒れ伏してしまい、処刑を行 […]

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14.社頭諌曉

兵士達が、厳しく警備する中、龍の口の刑場に向かわれた。途中、大聖人は鶴ケ岡八幡宮にて馬より降りられ、八幡大菩薩等の諸天善神に諌曉された。 [<< 前] [一覧] [次 >>]

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13.日蓮聖人召捕

文永8年(1271年)9月12日夜、北条時宗の命令で、平ノ左衛門頼鋼と数百人の武装した兵士は、大聖人の住まわれる松葉ヶ谷の草庵を襲撃した。 [<< 前] [一覧] [次 >>]

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12.間注所へ讒訴

雨乞いで破れた良観は、大聖人への憎悪の念を一層つのらせた。はじめは行敏という僧に命じて大聖人と対論させようとしたが失敗に終わった。思わくが外れた良観は最後の手段として、大聖人を誇ずる訴状を間注所へ提出した。しかし大聖人は […]

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11.雨乞

文永8年(1271年)5月の頃から干魅が続き、幕府は良観に雨乞いの祈祷を命じた。これを聞いた大聖人は、良観に使を出し「7日の内に雨が降ったなら良観の弟子となる。また雨が降らなかったら法華経に帰依すべし」との旨をつたえた. […]

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10.小松原法難

文永元年(1264年)11月11日、大聖人は工藤吉隆の願いによって、弟子と信徒十人ほどの供を連れて花房の蓮花寺を出発し、工藤吉隆の館へ向かった。大聖人一行が小松原にさしかかった時、突如、東条影信を中心とした数百名の念仏者 […]

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9.御母蘇生

文永元年(1264年)の秋、大聖人は御母妙蓮の病篤しの報せを受け、立宗宣言以来12年ぶりの帰省を決意された。大聖人が帰り着かれたとき、すでに母の病は重く、まさに臨終の状態であった。しかし大聖人の祈念によって、御母の病は日 […]

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8.伊東御配流

松葉ケ谷法難の後、下総・富木常忍のもとに身を寄せられていた大聖人は、弘長元年(1261年)鎌倉へ戻られ、辻々で法華経正意の説法をされていた。このことを知った幕府は、松葉ケ谷の襲撃の失敗を挽回せんが為に何ら取り調べもせず、 […]

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7.松葉ケ谷焼打

文応元年八月二十七日、念仏者を中心とした数多の誘徒が大聖人の松葉ケ谷の草庵を襲撃した。これは『立正安国論』を上奏された大聖人に対する、自身の利益・保身を守るために幕府及び宗教界からの陰湿な策謀だったのである。しかし、諸天 […]

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6.立正安国論

大聖人は邪宗が蔓延ることを嘆き、国家安穏の為、文応元年七月十六日(1260年)『立正安国論』を時の権力者北条時頼に奏進した。邪法部師を捨て、腰に帰依しなければ三災七難の内、未だ起こっていない「自界叛逆」・「他国侵逼」の両 […]

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