大聖人は九箇年の身延滞在の後、御入滅の近いことを了知され、白蓮阿聞梨日興上人に御相承せられた.日興上人に、三大秘法を口授し、戒壇の大御本尊の法宝を授与せられ、一期弘法抄を授与せられた.弘安五年(1282年)十月十三日武州 […]
大聖人が『立正安国論』に御予言の通り、文永十一(1274年)年十月と弘安四年(1281年)五月の二度に渡りに蒙古の大軍が壱岐対馬に襲来した。その後博多にも上陸したものの、二度とも台風が吹き起こり、軍船は砕け大軍も海中に沈 […]
弘安二年(1279年)十月十二日、大聖人は末法万年の一切衆生の救済のために、一間浮提第一の戒壇の大御本尊を御図顕された。弟子の日法はこれを楠の板に彫刻し奉り、さらにこの御本尊板の切れ端で大聖人の御尊体を一体三寸に彫刻し奉 […]
大聖人が身延に入られて間もなく、南条時光殿は種々の御供養の品を大聖人のもとへお届けするべく、険しい道のりをものともせず身延へと向かわれた。 [<< 前] [一覧] [次 >>]
第三の国諌も幕府の用いるところとならなかった。平左衛門尉頼鋼と対面されて約一月後の五月十二日大聖人は鎌倉を離れ、日興上人の御案内によって、甲州(今の山梨県)波木井の郷身延山に隠棲された。 [<< 前] [一覧 […]
文永十一年(1274年)4月8臼、二年半ぶりに佐渡より鎌倉に帰られた大聖人は、平左衛門尉頼綱以下の幕府最高首脳陣と対面され、部法を捨て正法に帰するよう厳しく仰せられた。これが大聖人の第三番目の国家諌曉である。 [< […]
日妙聖人は女人の身として嬰児を背にしながらも、はるか鎌倉より、危険の多い旅を経て、佐渡の大聖人を訪ねた。 大聖人は『日妙聖人御書』の中で、「日本第一の法華経の行者の女人なり」と日妙聖人の信心を褒められた。 [<&l […]
当時の佐渡は念仏者の勢力が強く、念仏を破折する大聖人に対する風当たりは凄まじかった。大聖人を謀殺せんとする企てもあったが、法門で決着をつけることになった。文永九年(1272年)一月十六日と翌十七日の両日、念仏者の罵声の中 […]
(文永八年十月十日、(1271年)大聖人は依智の本間邸から佐渡へ出発し、同二十八日に佐渡へ着岸、翌月一日に配所の塚原に到着された。)塚原の三昧堂は、墓地の中にある荒れ果てた小さな堂であった。厳寒の地、佐渡において、大聖人 […]
依智本間邸に着かれた大聖人は月に向かって諌曉された。すると、不思議にも月明かりの夜空から、大きな明星が降り下り、庭の梅の木に掛かった。警固の武士達は皆大いに驚き、縁にいた者は飛び降り、ある者は庭に伏し、ある者は家のうしろ […]